直感にしたがっていたら夢が叶っていた話
- Linda Healing
- 2023年12月16日
- 読了時間: 7分

人生を振り返ってみると、ありがたいことに多くの願いが叶ってきたことがわかる
大変なこともたくさん経験したが、
全て感謝に変えられるくらいに、
今が一番幸せで全ての学びが腑におち、
私の魂が今ようやく光り始めたことを感じる。
小学校4年生か5年生の時になぜか私は
「アメリカに行かなくちゃ。」と思っていた。
「行きたい。」じゃなくて「行かなくちゃ。」
どうしてだか全くわからないのであるが、
そう思っていたことを今でも覚えている。
両親ともに日本人で、海外には行ったことがない。
親戚や祖父母で海外とご縁のある人もいなかった。
友達も周りは日本人だけで、
アメリカの文化を感じる生活環境でもなかった。
そして両親に突拍子もないことを言い出す。
「中学校はインターナショナルスクールにいきたい。」
もちろん聞いてもらえるわけがなかった。
今考えても無謀な案である。
でも何か焦っていた感覚を覚えているのだ。
その後私は普通に日本で中学、高校、大学と進み、
海外に何度も旅行には行ったが、
留学することも住むこともなかった。
が、私は中学生になった頃から毎日ラジオ英会話で英語の勉強を始めた。
誰に勧められたわけでもなかったのであるが、
やらなくちゃって思っていたのを覚えている。
毎日聞き続け、大人になっても続けていた。
そして今でも覚えているのが、
中学生だったか高校生の時だったか、
「将来は日本語が話せるアメリカ人の男性と結婚する。」と
一回だけ思った。
その時の場面も思い出せる。
あれは願いを放ったという感じでもなく
こうなったらいいなあっていう感じ。
その一回きりで
その時のことは、叶うまですっかり忘れていた。
そして28歳のときに、
友人の紹介で日本にいながら、
アメリカ国籍の日本人の夫と出会った。
夫は日本企業に勤めていたため、
その後海外転勤は多くあったのだが、
基本的には日本をベースにしていた。
夫と出会ってお付き合いを始める時に夫が言った。
「アメリカの大学院に行くのが目標なんだ。」
私は言った。
「その夢を一緒に叶えましょう。」
その6年後、夢は叶い、
主人は会社を辞めてアメリカの大学院に通った。
そしてその2年間で息子も授かった。
結婚して6年間子供ができなかったのに
そのアメリカでの2年間に生まれてきてくれたのだ。
その後の息子の人生を考えると彼は間違いなく、
出生地を選んで生まれてきたのだと確信している。
これはまた後日のテーマに。
そのアメリカでの2年間に子供を産んで
産後1ヶ月で日本に帰ってきてからは、
また日本をベースに海外転勤の生活が続いた。
夫のすごいのは海外転勤も引き寄せてきたことである。
決してそういう機会が多い企業ではなかったが、
なぜか主人には海外へ行く機会を多く頂いた。
それも絶妙なタイミングで
突然降って湧くような。
それで私たちはいつの日からか自然に
「いつかアメリカへ移住する。」
そう思うようになっていた。
そしてそれを口に出して、人にも言っていた。
当時アメリカへ行く機会はなかなか訪れなかったが、
私たちはずっと信じて疑わず、
「アメリカに移住するんです。」
ことあるごとに口に出して人に言っていた。
そしてその機会は訪れた。
それは夫が自分で掴んだアメリカ転勤だった。
夫が先にアメリカへ行った後、
私は失効してしまっていたグリーンカードを再び申請した。
当時のアメリカはトランプ大統領の時代。
移民に厳しく、グリーンカードをとることは難しいと言われていた。
当時相談した弁護士に「1年以上かかる」と言われたことを覚えている。
蓋を開けてみたら、
申請してから3ヶ月でグリーンカードを取得することとなり、
息子と私もアメリカへ行くことができた。
そして息子もラッキーだった。
普通はテストがあるはずの、
カリフォルニア州のベスト5に入る進学校のプライベートスクールに
面接だけで入ることができたのだ。
日本時間の夜中の1時に、
当時8歳だった息子は、
「1人でやるからママ別の部屋に行ってて。」と、
私を部屋から出し、
スカイプで1人で面接を受けた。
なんの練習もしていなかったので、
受け答えもきっと「うん。」とかそういう感じだったはずだ。
後から聞いたら、
「お手伝いはしてる?と聞かれてしてないと答えた。」とか
「朝起きた後ベッドメイキングするの?って聞かれてしないよって答えた。」とか
もし私が一緒にいたらヒヤヒヤするような面接だったようだ。
彼は正直に自分を出して
そしてその学校に受かった。
それまで息子は勉強もほぼしない、
宿題もない自由な学校に通っていた。
息子の運の良さにはいつも感心する。
アメリカに渡って2年後、
主人は転職を決意し、
アメリカの企業にご縁をいただいた。
私たちはアメリカに移住となった。
大筋はこうであるがこの間に、
ものすごくいろんなことがあった。
傷ついたり、辛いこと、大変なことも、たくさんあった。
だけどそれは、
自分だから乗り越えられたんだと思う。
みんなそれぞれの人生、
これまでは大変なことがたくさんあったと思うけれど、
ちゃんと乗り越えられることが起こってきているのだと思う。
そして乗り越えながらも
ちゃんと引き寄せもできていた。
機会も人もお金も。
そしてベクトルはちゃんと
夢の実現へと向かっていた。
夢を叶えるための引き寄せをする大きなポイントは
ズバリ波動を高く保つことである。
これだけで良いと言っても良いくらいだ。
今でこそ波動を高く保つコツなどを
たくさんのメディアで発信されているので
情報を得ることができるが、
私が25歳の時にはそのような情報は私の周りにはなかった。
25歳の私はそれまでの人生で培ってしまった
思い込みや自分責め、
自信の無さが分厚い壁のように
私の魂を覆いかくし、
偽りの自分で、
違う誰かになろうとして、
重いエネルギーを抱えて、
思い通りにならない人生を生きていた。
体調にももちろん影響していて、
毎日むくみがひどく、
顔も足もパンパンだった。
おそらくあのまま過ごしていたら
病気になっていたと思う。
でもね、そんな時に私はある方に出会い、
ある場所に出会った。
私の直感でここだと思った。
そのおかげで、エネルギーの流れを良くしてくれるどころか
25年間培ってきた
または過去生から持ってきた
ものすごい量の沈殿物のようなエネルギーのゴミを
25年かけて綺麗にしてもらい、
波動を上げてもらい続けた。
自分責めや思考癖はあまり変わることがなかったが、
体調は少しずつ良くなり、顔つきも変わってきた。
そして明らかに自分の世界が変わり、
夢が現実になるのが早くなったのだ。
これもすごい出会いだった。
当時スピリチュアルとか波動とかエネルギーとか
全く普通に話されていなくて、
どちらかというとその手の話は
オカルトとかそっちの類に分類されていた。
私も両親や友達に反対されたり
心配されたりしたけれど、
私の直感が「ここが必要」と言っていたので通い続けた。
身体が変わり、顔や肌が変わり、
どんどん軽くなることが、
そして必要な物事やお金が引き寄せられてくることが不思議でしょうがなく、
ここでの経験が、後に私が自らエネルギーを変える勉強をするきっかけとなる。
そのおかげで私は大変なことがあっても
辛いことがあっても
波動を調整してもらって
高い波動をキープし続けることができた。
そして夢が現実化されていった。
25年経ったある日、
ふと、「あ。もう必要なくなった気がする。」とわかった。
これも直感である。
それは小学校のときの「アメリカに行かなきゃ。」が現実となった、
アメリカへ移住後まもなくのことだった。
夢を叶えるために必要な要素を
宇宙はちゃんとその都度用意してくれていた。
それを直感で受け取れていたなあと今になってわかったことだ。
全ての経験にちゃんと意味があって
無駄はなかった。
そして今私たちは
自分で波動管理できる
風の時代に生きている。
自由にのびやかに
軽く軽く生きて
波動を軽くして
夢を早く引き寄せられる時代が来たのだ。
私の夢は
地球のできるだけ多くの人が
それぞれ軽くなって
それぞれの夢を叶えて
幸せな笑顔で心の手を繋いで
共に生きる世界をここから広げていくこと。
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